歴史の授業でパッと学習するもののの、なかなか実情が見えてないのがこの飛脚の制度。現在の郵便と重ね合わせて考える事もで来ますが、高価格の為にそれほど普及しているものではありませんでした。
そもそも飛脚そのものは江戸時代に至る前に既に存在していました。しかし制度が確立されたのが江戸時代、1633年のことでした。かなり高い身分の人々が利用するためのもので、五街道や伝馬といった交通の方面が整備されていたので、それを利用して制度として確立されるに至ったようです。
最初の形態は「問屋賄継飛脚」で、略して継飛脚などとも呼ばれたものです。これは公文書を届けるための飛脚で、しかも利用するのが上記の通り高い身分の人々であるということから、彼らの仕事の邪魔になるようであれば大名行列でさえも道を譲る必要があったといわれています。
宿場から宿場へバトンタッチして届けるというものでした。
ところで公的文書を運ぶものとしては、御三家などを初めとする有力な大名が利用したその名もまさに「大名飛脚」、そして「七里飛脚」というものがありましたが、後ろに居る権力者の存在を良い事に大きな態度で居た人も少なくなかったようで、街での評判は悪かったそうです。
ここまでは公的な飛脚だったのですが、民間の飛脚もあります。それが「町飛脚」と呼ばれるもので、始まりは大阪方面だったそうです。江戸時代においては江戸というのは下るものであり、大阪のような関西が「上方」でした。
そういうこともあってか、江戸の旗本がよく出張していました。その際に江戸と連絡を取る為に飛脚を利用していました。最初は自分の部下を使いに出していたのですが、やがてそれを見ていた民間がビジネスチャンスと想ったのか、それとも上方の商人も良く江戸に出ていたから便利であると想ったのか、同じ仕事を始めました。
それをやがて旗本の人々も使うようになっていったものを「三度飛脚」と呼びます。これは一ヶ月に三度往復するという事を意味します。大体、江戸から大阪まで行くのに一週間以上は必要だったと言われていますから、この制度はなかなかのサービスといえるでしょう。
また、現在の郵便サービスに最も近い物として、江戸市中のみで手紙を送れる町飛脚も登場はしていますが、これは江戸時代も末期に登場したものでした。料金体制を見れば近場であれば庶民でも利用する事が出来そうな価格です。
ところで…現在の郵便にもある速達の制度もありました。定六と呼ばれる6日以内に送るものや、仕立使と呼ばれた更に早く届けるものもありましたが、料金が途方もなく高く、緊急の連絡でもない限り、利用できないようなものでした。
まぁ、どちらにせよ江戸時代の人々にとって手紙を遠方に送るというのは、そう容易い行為ではなかったということは間違いないでしょう。 |