15代続いた徳川家の将軍の中でも、なかなかの人気を誇るのが徳川吉宗。
享保の改革で今で言う政治の構造改革を行なった人で、この人が居なければ徳川家はもっと早く駄目になっていたかもしれないという見方も出来ます。
構造改革以外にも、江戸時代の法典の基礎となる「公事方御定書」を作った人でもあり、また目安箱で庶民の意見を採用したりという取り組みを行なったのも、この吉宗です。現代にも通じる改革を行なっている為か、共感のしやすさ等で人気を集めているようです。
覚えている人もいるかと思いますが、この人は徳川幕府で始めて「宗家」の伝統が途切れた将軍です。つまり、それまでは二代将軍であった秀忠の息子の血統が代々将軍職を勤めていましたが、家継が幼少で他界してしまったので、子供が居なかった。その場合は御三家から次期将軍を選抜するという事で、選ばれたのがこの吉宗。紀伊藩主だった人です。
家継の跡を継ぐという事なので、形式上この人は家継の養子…義理の息子という事になりますが、この人…養子といっても1684年生まれ。一方の家継は1709年生まれ。なんと25歳も年齢が違います。
吉宗は冒頭のような改革で高い評価を受ける一方で、米価の調整などの米にまつわることではかなりの苦労を強いられています。彼が年貢を増徴しすぎた事が後の百姓一揆などを引き起こすきっかけになっています。
そんなこんなで吉宗につけられた別称は「米将軍」でした。
しかしおおむねでは好評の吉宗の政治。
人事についても高評価を得ており、時代劇でお馴染みだった「大岡越前」に出てくる町奉行である「大岡忠相」を採用したのも吉宗です。現代の法律の本にもたまに大岡忠相の出した判決が例として挙げられるほどなので、なかなかの名奉行だったようです。また、次世代で政治の中心人物となる田沼を最初に取り上げたのも、吉宗です。能力がある人間であれば、異例の大出世も有り得るというわけですね。
それは家継の急逝によって江戸の将軍となった吉宗自身にも言える事かもしれません。
ところで彼は大奥から選り抜きの美女を解雇したというエピソードを持っています。それくらいの美女ならば、大奥にいなくても幸せになれるだろうから、という理由だったようですが、やはり考える事が少し凡人離れした人物だったようですね。 |