紳士録-徳川慶喜-
有名な人から無名な人まで、全員取り揃えてみました。

 徳川家最後の将軍、徳川慶喜。
 彼は最後の将軍ということで余り良いイメージが沸かないようですが、かなり聡明な人物だったと言われています。その為に十三代将軍の家定に子供が居なかった為に、次の将軍は誰か?という揉め事が起こった際に、この人も推薦されていました。

 しかし、ご存知の通り十四代には家茂が就任しました。
 1958年のことです。
 何故、幕末の大変な時期に少年だった家茂が選ばれたのか?理由は単純です。この人の方が八代から続いてきた吉宗の血筋に近かったのです。家茂(将軍就任前は慶福)は紀伊の人だったので、吉宗と出が同じだという事です。
 彼を推したのが井伊直弼だという事を考えれば、政治的な能力の低い少年を将軍にする事で、自分達政治家でその荒波を乗り切ろうと考えたのかもしれませんが、能力と血の繋がりのどちらを重視するのかという議論は、血の濃さで決着を見たわけです。

 しかし、このように書くと慶喜は一橋家だという事実を挙げる人が居るかもしれません。
 一橋家とは吉宗がそれまであった御三家と同様に、自分の後で血筋が途切れた場合は自分の血筋に近い家から跡継ぎを出そうと考えて創立した「御三卿」の一つです。
 その流れから行けば慶喜が選ばれる方が自然なのではないか?という事になりますが、慶喜は元々は水戸家の人間です。それが御三卿の存在を考え、御三家に居るよりは御三卿である一橋家に養子に出した方が、慶喜が将軍になれる可能性は高い…という事で、養子に出されたのです。

 蓋を開けてみれば結局御三家である紀伊の血筋を重視した将軍が選ばれたというのも皮肉なものですが、血筋にこだわった為に最も重大な時期を少年将軍で幕府は迎え、能力で将軍に推薦されていた慶喜が1862年からの将軍後見を経て、ようやく将軍になったのは1866年の12/5日。この一年と四日後には王政復古の大号令が出されるという、もう取り返しのつかない時期でした。
 それまで裏舞台で事態を支えていた彼が、将軍として聡明さを世間に示したのは唯一、薩長(薩摩、長州)を中心とする勢力が徳川幕府を壊滅させる寸前に大政奉還を打ち出し、徳川家の存続だけは守り抜いたというところでしょうか。
 もしも1858年に慶喜が将軍になっていれば、9年後の出来事も変わっていたのかもしれないですし、それとも変わらなかったのかもしれない。歴史に「たら」「れば」は厳禁といわれますが、大変悔やまれる将軍である事に違いはありません。

 彼は政権が朝廷に移り、明治時代が到来しても命をとられることは避けられ、実は明治天皇よりも長く生き、大正の声も聞いています。大正2年、西暦1913年にその波乱の人生を終えました。享年77歳というのは江戸時代の将軍としては最長の年齢です。

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