紳士録-「家」-
有名な人から無名な人まで、全員取り揃えてみました。

 徳川将軍家の将軍といえば「家」の文字がつくこと。これは当然、徳川幕府の創始者である徳川家康の文字を取ったもので、徳川家に限らずともこの手の傾向というのは子供に自分の一文字を入れたりというもので、徳川家のように15代の大半につくというほどではないにせよ、現代の社会でも決して珍しいものではありません。
 歴史の教科書の索引の欄を見てみると「徳川家○」という名前がズラリと並んでいるわけで、非常に検索がしにくいという想い出がある人も少なくないでしょう。それが江戸時代の将軍の名前を覚えるのを非常に困難にしているというのも事実かもしれません。

 ところで、疑問に思った事はありませんか?
 ここまで揃えているのに、数名…正確には二代将軍の「秀忠」、五代将軍の「綱吉」、八代将軍の「吉宗」、十五代将軍「慶喜」の四名ですが、彼等はどうして「家」をつけなかったのだろう?と思った人は少なくないと思います。
 この「家」がつかない人は二代将軍の「秀忠」は少し影が薄いとしても、江戸時代において大きな局面に立っていた人という事で、何となくそれで不審に思わなかった…といえば、確かに出来すぎたようにさえ思える名前です。

 順良く進めていきましょう。
 まずは「秀忠」です。彼の名前につく「秀」の文字は先の時代の天下人であった「豊臣秀吉」の名前から一字を取ったものです。秀忠は戦国時代によくあった主従関係の形式として秀吉の下へ人質に出されていました。が、人質とは言えど彼は秀吉にとても可愛がられていたので、秀吉が自分の一字を成人する際に贈ったのです。
 しかも、それだけではありません。この時に秀吉は自分の姓であった「羽柴」と「豊臣」の双方を彼に使っても良いと贈っていました。その秀忠が豊臣家を裏切った徳川の将軍に就任するのですから、歴史というのは皮肉なものです。彼の心情はどうだったのでしょう。
 秀忠にはもう一つ秀吉に関る話が残されています。二代将軍として候補者に上がった人物にもう1人「秀康」がいました。彼の「秀」も秀吉からの一文字です。しかも、彼の方はもっと秀吉寄りの人物で、秀康は秀吉の養子になっていました。
 恐らく家康はさすがに秀吉の養子だった秀康を選ぶわけにはいかない…という事で秀忠にしたという面もあるのでしょうが、なんとなく秀吉の怨念じみたものを感じますね。

 他の将軍は将軍に就任する際に既に成人(元服)し、他の藩主を勤めたりしてから将軍になっています。三代将軍家光の事を「生まれながらの将軍」と呼びますが、彼等は生まれた時には必ずしも将軍職に就くとは想定されていなかったわけです。

 五代将軍の綱吉は四代将軍の「家綱」の兄弟であり、子のいない家綱が危篤になったので、館林藩主であった綱吉が兄弟の養子になるという変則的な形で30代半ばを過ぎて将軍になったので、とっくに綱吉の名を名乗っていたわけです。この「綱」の文字は兄の家綱の文字を一字とって彼の父親である三代将軍家光が命名したようです。
 徳川家は宗家を続けることに対しては強引だった割には、名前を変えてまでという意志は無かったようです。既に秀忠の例もあるので、当然かもしれません。
 ちなみに綱吉の次の将軍家宣は家綱と綱吉の兄弟「綱重」の子を綱吉の養子にしたものです。二人は将軍になり、一人は将軍を子に持つ…この兄弟、非常に権力に縁のある連中です。

 八代将軍の吉宗はそうして守ってきた徳川宗家の流れが途絶えた将軍です。先代の家継が非常に幼くして他界してしまった為に、紀州の藩主吉宗は25歳も年が下の家継の養子になりました。なので、この人も三十代で就任。家継に子供さえいれば将軍になるはずもない人なので、名前に「家」がつかないのは当然だったんですね。
 ちなみにこの人の「吉」の文字は五代将軍である綱吉に由来するそうです。

 そして十五代…徳川幕府最後の将軍となったのが慶喜。彼も「吉宗」と同じ事情です。
 ただ、少し面白い話があります。吉宗以降は再び吉宗の宗家で代々将軍を続けていたのですが、十三代で途切れてしまいました。そこで十四代を一橋家の慶喜紀伊藩主の家茂(当時は慶福)とで争いましたが、十四代にはご存知の通り家茂が就任。
 この時に家茂はまだ元服前という事もあってか就任後に改名し、名前に「家」がつくのですが、その後に将軍となる慶喜は既に元服をしていたので「家」がつきません。

 「家」の文字を名前に持たない将軍達は、自分の名前をどう思ったのでしょうか。
 吉宗は宗家が途絶えた最初の将軍として、宗家時代の「御三家」と同じように吉宗に近い親族を「御三卿」としたり、吉宗の時代の到来を思わせることをしているのですが、彼の次の将軍は「家重」です。これは吉宗が家康を尊敬していたことがそうさせたのでしょうが、もしも吉宗が家康に敬意を持っていなければ、徳川幕府後半の将軍には「吉」か「宗」の字が含まれていたのかもしれないですね。

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