紳士録-宮本武蔵-
有名な人から無名な人まで、全員取り揃えてみました。

 いつの時代でも人気のある時代劇のヒーローの一人として著名なのが、剣豪・宮本武蔵。
 その戦績のみならず、芸術面でも高い才能を発揮し、著作である五輪書は今でも多くの人のバイブルとして名高く、様々なメディアで彼の生涯が描かれ続けています。
 しかし、この人物も多くの時代劇のヒーローと違わず、実際の姿と伝わっている姿との間に違いのある人物です。

 宮本武蔵は生涯の中で六十回を越える決闘をしていますが、対戦相手の多くの殆どは無名の人物で、「戦績」として広く認められるものではありませんでした。
 彼が生まれたのは16世紀後半で、その時期に起こっている関ヶ原の戦いや豊臣家を権力の座から失墜させた大阪の夏、冬の陣にも参戦していると語っていますが、何か特に評価されたという記録はありません。彼は対等な戦いでの天才的な技量とは違い、集団を率いての戦での才能には恵まれていなかったといわれています。
 また、若い頃の彼は性格に何か難があったらしく、それを理由に大藩への就職に失敗しています。彼の持つ華やかな戦績も一般庶民には人気でしたが、対戦相手の知名度の低さから、公的には余り通用しなかったのもその理由の一つです。結局、最終的には五十代半ばまで希望したような職へ恵まれず、肥後藩へ三百石で召抱えられ、定住しました。

 しかし、ようやく安定した生活を手にするも、放浪の生活が長かった為か体調を崩し、剣術の指南は余り手がけないまま人生を終えたようです。衰える体とは逆にこの時期に彼の芸術家としての才能は花開き、数々の名画を残しました。
 やがて洞窟(霊厳洞)にこもり、座禅を組む一方で五輪書で自分の人生から学んだ兵法を記しました。殆ど息絶えた状態の宮本武蔵が発見されたのもその洞窟の中です。

 洞窟へこもった彼の行動へは、二つの見方があります。
一つは宮本武蔵が悟りを開いて、自らを律するため、そして後世へ激動の時代で培った兵法を伝えるための行動と捉え、もう一つは自らの人生を美化するための行動である、というものです。前者は一人の剣士としての宮本武蔵を正面から見て考えられ、後者の説は五輪書の中に書かれている事と史実の食い違いから囁かれています。
 真実は本人のみぞ知るところですが、後世で作品の主人公として取り上げられた彼は永遠の英雄として、その名を歴史に刻むこととなりました。どちらにせよ、一人の剣術に秀でた剣士が居たという事実だけは変わりません。

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