紳士録-松平定信-
有名な人から無名な人まで、全員取り揃えてみました。

 松平定信といえば、田沼意次の時代を反面教師に、寛政の改革を行い、庶民の娯楽などの贅沢を従来よりも強く規制し、重農政策に切り替え倹約などを主軸としたクリーンな国作りを目指した人として有名です。
 また、武士は朱子学を奨励し、文武に勤めさせました。
 その治世は『白河の 清きに魚の すみかねて もとの濁りの 田沼こひしき』と表現され、賄賂などもありながらも、華やかで庶民にはすごしやすかった田沼の時代に比べて、清廉な政治ではあったものの、現実の庶民生活からは懸け離れていていた為に、庶民にはうけいれられませんでした。
 やがて尊号一件で徳川家斉や一橋家と関係が悪化し、老中を解任されてしまいました。
注:『白河』は白河藩松平家出身の定信を指し、田沼はそのまま前任の老中意次を指す

 彼の寛政の改革はそもそも徳川八代将軍・吉宗の享保の改革を手本にしていますが、彼はその吉宗の孫に当たる人物で、吉宗の血が途絶えた場合に将軍を選出する『御三卿』の一つである田安家の人間でした。
 その秀でた能力から、もしも将軍に子が途絶えた場合には時期将軍として最有力視されていましたが、それを懸念した同じく御三卿の一橋家が、同じく優秀な定信が将軍になると自分の権力に支障が出る事を懸念する田沼と手を組み、彼を松平家の養子としてしまいました。
 そして、結局定信は田安家に戻る事は許されず、将軍になるチャンスを逃してしまいました。

 こうした経緯の為に、定信は非常に田沼を嫌っていたといわれており、田沼を失脚させる為に、田沼に賄賂を贈る事で地位をつけ、やがて田沼を失脚させる為の組織を結成、後に一揆や打ちこわしなどの治安の悪化などの問題が噴出した事を契機に、田沼を権力の座から引きずり落とす事に成功しています。
 後の田沼とは対照的な治世も、田沼に対する憎悪の感情が働いていたとも言われています。

 彼は文化人として有名で、白河藩に彼が残した公園(南湖の築庭)は日本で始めての物で、つまり日本最古の公園です。

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