「生まれながらの将軍」というのは家光の事を指す表現ですが、この言葉を最初に口にしたのは、ほかでもない家光本人です。家光といえば三代将軍であり、家康の孫で、1623年に秀忠が将軍職を退く事で将軍になりました。
彼が生まれたのは既に徳川が天下を取った頃です。なので、生まれたときから将軍になる事が決まっていたといえば、確かに言えるでしょう。彼は先の二人の将軍が徳川家が世襲で将軍を行なうのだと世間に示し、豊臣家も滅びた…という事で、江戸時代を徳川家で治世していくの地固めがされ、その後の調整をした人です。
御三家が完全な形で確立されたのも、参勤交代の制度が確立されたのも彼の時代です。ある意味では、新世代の将軍だったわけですね。その業績は「生まれながらの将軍」に相応しいものだといえるでしょう。
しかし、この人が自分をそのように称したのには別の事情があります。
この人の両親は彼を将軍にする意思はあまりありませんでした。家光は業績から言っても堅実で、名将に分類する事が出来そうな感じがしますが、幼い頃はその片鱗さえも伺ないようなタイプの人間だったそうで、彼に将軍職は無理だと両親は判断したようです。
その彼の窮地を救ったのは徳川家康でした。
家光の乳母が時期将軍について家康に直訴していく事で、家光は将軍のポストをどうにか保障された経緯があります。この経緯は彼の政治家としての顔にかなり大きく影響をしているようです。
その影響の一つが就任後の発言である「生まれながらの将軍」だったのです。
彼は将軍である事に強いこだわりを持ち、将軍とその家臣の関係、あるべき態度についても厳しく、部下から(もしかすると自分よりも)評判の良かった自分の弟を死に追いやったり、主要なブレーンであった松平信綱も、後には左遷させられました。
逆に自分を将軍へしてくれた家康に対しては、徳川将軍の中でも随一の敬意を表し、何か政策を打ち出すときには家康が夢枕に立った…といった発言を何度もしています。
それはちょっと都合の良い使い方ではありますが、家康を神として祀った日光の東照宮へは歴代ダントツNo.1である十回も参拝しています。実の息子である秀忠でさえその半分も行っておらず、他の将軍では四人が一度ずつ参拝した事があるだけなのと比べると、圧倒的な回数であるといえるでしょう。
そういう意味では、尊敬する家康の一生をかけて手に入れた天下人のポストをより厳しい形で守り抜いた将軍であるといえるかもしれません。
ちなみにこの人は江戸の将軍としては初めて、死ぬまで将軍でした。それまでの家康、秀忠は健在のうちに次の将軍へポストを譲っていたのと比べると、まさに生まれながらの将軍、死ぬときも将軍でした。 |