国が統一されれば次に必要になるのは道です。
現在の社会においては道の過剰な増設が問題になっていますが、江戸時代の初期においては道を完備させる事こそが重大な問題でした。人、物、金の流れを良くし、そして、様々な情報を出来るだけ効率的に得るためです。
徳川家康もその点は重々承知しており、徳川幕府が成立する1603年よりも早く東海道の整備を始めています。(街道の主な整備の趣旨は宿駅の設置、伝馬制度など)
江戸時代において重要な街道は前述の東海道の他に、中山道、甲州道中、日光道中、奥州道中の五つの街道です。これらを総称して「五街道」と呼びますが、その中でもやはり最重要の街道は江戸と大阪、京都の三都を結ぶ東海道でした。最も重要であるからこそ、最も早く整備がなされていたので当然ですが、江戸〜京都間を約495Km弱で結ぶ道で、良く使われる「東海道五十三次」という名称にもあるように、街道の途中にある城下町や小都市に五十三の宿駅がおかれていました。
その宿駅には大名が宿泊する「本陣」「脇本陣」に、一般の旅行者が利用する「旅籠」などがあり、江戸から京都までを十二日前後くらいかけて通過していたそうなので、この時代の人々は良く歩いていた事が想像できます。特に大名行列では経費節約の為にかなり足早に通過していったそうです。
東海道などは現在の国道に重ねて語られたりする事も多いように、こうした街道は幕府の直轄で、道中奉行が管理を行なっていました。例えば『東海道中膝栗毛』にも出てくる有名なワンシーンですが、雨によって川の水かさが増えて渡れなくなった際に、肩車をしたり、荷台の上に乗せて川の向こう側まで運んでくれるというサービスがありますが、これは勿論実際のサービスであり、料金は幕府が水かさによって四段階の料金を定めていました。 |